2011-05-31 つるばのつぶやき
- 20:37 帰宅して食事を終えたなう。
- 20:39 朝日新聞「ハルヒが映す『自画像』」を読む。「自分の小説はニッチな部分のさらに隙間を狙っているようなもの」か。
- 20:59 ファンの揶揄表現としての「信者非難」をしばしば見かけるのだけれど、そもそもファン活動がゆるやかな合理性を持っていたりすることや、そもそも宗教が非合理性も包み込む論理的な体系であることを無視していたりと二重に残念な気持ちになる。
- 21:00 サンプラザ中野の「時代」はすばらしかったなぁ。
- 21:08 ファンのえこ贔屓的言動は確かに目に余る場合もあるけれど、それは別に「信者」という言葉を使わなくても問題ない場合がほとんど。
- 21:11 おそらく、そもそも信仰を持たぬ人々は、信仰を持つ人々を「非合理的」で「えこ贔屓的」行動を行う「異なる生き物」として見てしまっているのだろうと、たまに考えることがあります。そう見てしまうこと自体は、仕方のないことですね。
- 21:16 信者という言葉が「異なる生き物」を表現するためのおしとやかな侮蔑的表現として使われているわけですね。でも、それって「信者」という言葉にある微細なところしか掬っていないとても貧しい言葉の使い方だなあとしばしば思っています。
- 21:25 実際、いろんな人がいろんな場面でいろんな文脈にのせて言葉を用いる。別に侮蔑的表現や、まあ、品のない言葉を使うこと自体はそれはその人のひととなりですし、そうした表現が必要な場面もあるでしょう。とくに非難したりしません。ただ、僕はちょっと残念だなと思うだけです。
- 21:28 日常生活の一場面でも、わざと過剰な言葉や下品な言葉、逆の意味を持つ言葉を使うことがあります。ずいぶん前にはそれを「パフォーマティヴ」と、一部では持てはやしていました。
- 21:35 ここで肝だと思うのは、その「わざ」と、意図的にそうした表現を行う理由ですね。それが他の表現に比べ、独創的であったり、深慮に基づくものであったりすることが肝要だと思うのです。
- 21:39 ( ´∀`).。○( ぶっちゃけ、僕がその表現に飽きたってことなんですけどね )
- 21:54 あ、ちなみに僕はなにか特定の宗教を信奉するものではありません。為念。
- 22:05 母親が、韓国ドラマ「ぶどう畑のあの男」を見始めたなう。
- 22:07 母親から韓国ドラマ「メリは外泊中」がいかにすばらしいかを聞かされているなう。
- 22:25 某氏の日記で、「はじけて!ザック」が復刊していたことを知る!不覚!
- 23:31 結局「ぶどう畑のあの男」9話をいっしょに観てしまった……寝よう。
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