白黒学派

Monochrome School

本格推理小説の定義の解釈

森下さんのCRITICA(クリティカ)三号を読んでに「『容疑者Xの献身』が騒わがれた時、だれも本格ミステリをきちんと定義しようとしなかった」とあり、同様の意見は論争の後で幾度も見聞きしました。しかし、ここに誤解があると常々思っていまして、実際はハヤカワミステリマガジンで連載された「現代本格の行方」の第一回の二階堂さんの「<本格推理小説>とは、手がかりと伏線、証拠を基に論理的に解決される謎解き及び犯人当て小説である」という定義そのものへの正面からの反論があったわけではありません。


僕が第2回で書いた「一奇当千」でも、「作中の手がかりによって真相が推理できる作品を本格推理小説とする……」と明記しており、言葉のニュアンスの違いはあれど、基本的な定義としては二階堂さんのものと同様です。むしろあの論争で問題となったと今になって思うのは、定義の解釈だったのだろうと思います。奇しくも森下さんが「定義」と「説明」でお話ししているとおり、言葉の定義とは非常に難しく、ときとしては馬鹿馬鹿しい議論と見えるのでしょう。小説が論理的と読めるのはどのような事態を指すのか、手がかりと伏線の具体的な例示、謎解きとはどのような叙述であるべきなのか。ある論では「定義を立てない」という大胆な発言もありましたが、その真意は該当する論文には暗示されていますし、それは二階堂さんの定義への反論を述べたものではありません。極論を述べれば、定義しないことも、定義のひとつです。


それと、いちおう述べておきますと僕は市川さんの「本格ミステリの軒下で」は非常に読者の立場に立った労作で広く読まれるべきだと思いますが、そこにある「定義という勘違い」説には若干の違和感を覚えています。第6回本格ミステリ大賞の選評にもあるように、僕自身が本格推理小説の定義の必要性を意識しているからだと思います。市川さんがおっしゃるように定義とは「白」と「黒」を峻別するための言語的な仕組みなのでしょうか。定義は厳密であるべきだと僕も思いますが、定義が分類のための道具であるべきだとは思いません。それは論理学的におそらく間違っていると思います。というのも、定義とは「あるものの存在」を指すものだからです。だから本質的な「定義」論は、いわゆるジャンル論を越えて哲学的な問題に突入します。それは、ごくごく一般の読者を視野に入れた読み物では難しいでしょうし、定義自体はできてもその定義が正しいものかという証明作業はたいへんつらい道のりです。ですから、僕としてはそういった内容が受け入れられる場所で、なおかつその場所にふさわしい体裁でこつこつと書き続けるしかないと思っています。